疲れてくると、こころの目って閉じてしまうんだなと感じる。
そうなると人間って自然と目線が下向きになるようで、「あ、こんな所に油シミが」とキッチン床のよごれには気がついたりするのに
自分の肩より上には目線がいかないようで
ニャンコがやけに興奮してる、その目線の先を追って初めて
天井の隅っこにへばりついてる、小さいクモさんに気づいたりする。
ハンターの「ココ」(うちの黒ネコ)におもちゃにされたらもう命がないので、そうなる前にそっと紙に移して外に出してやる。
その時「見上げる」ために使う筋肉を久しぶりに使ったことに気づく。
それでバルコニーに出て意図的に見上げてみたら、
あら、お隣りさんの二階の鉢植えに赤い花が咲いている
あら、木々のあんな所にリスが座って何か食べている
あら、いつの間にか空の青が深くなってる。夏になったのね〜、、、と
バルコニーには昨日も出たのだけど
視覚的には同じ情報を受け取りながら、見上げたことで今日は脳が違うものを認識していることに気づく。
なにか閉じていたなあと感じる。
肉体の目は、視覚的情報を脳に送る働きをするが
私たちが日々ほんとうに「見ている」ものは、こころの目を通してキャッチしたものではないかなと思う。
昨日となんら変わりない日常の風景が、例えば恋をするとバラ色に見えてくるのはそのためだろう。
幼子と空を見上げて母親は、曇ってきた、早く家に帰って洗濯物取り込まなきゃと思う。その隣りで子供は、あ、トンボが飛んでる!と思う。
同じ視覚的情報を受け取って母親が感じたのは焦り。子どもが感じたのは歓び。
こころの目がぱっちり開いていると、幸せを感じやすい。
それをいつもぱっちり開けておくコツは分からないのだけど、「見上げる」ことってひとつの効果がある気がする。
スマホが世に出てから、人は揃ってうつむき加減。
これは仕事でも感じることだが、授業開始前の教室はほんの数年前までもっとうるさかった。
私が「はい、じゃあ授業始めまーす」と言うまで、学生たちが隣同士ぺちゃくちゃおしゃべりしていたからだ。
それが昨今では不気味に静か。
「Hey, how is it going?」と短くあいさつを交わすや否や、席に着いたらまずスマホを取り出し、隣りに座るクラスメートと会話する代わりにFacebookやメールをチェックし始める子供たち。教壇から眺めると多くの学生がうつむいている事に気づく。
そんなに若い時から下ばっかり見ていたらこころの目が閉じてしまうよ。(姿勢も悪くなるし)
日本語よりももっと他の事をこの子たちに教えたい、伝えたいと感じることが最近多々ある。
そういう私も日々の雑多ですっかりこころの目が閉じてしまっていたので、あまり人に偉そうなことは言えないのだが。
シアトルは六月末で2015年ー2016年の学年度が終了した。ようやく一息つける時間が持てるようになり、閉じていることさえ気がつかなかったこころの目も少しずつ開き始めたのかもしれない。
あなた様のこころの目は閉じていませんか?
もしかしてこのブログ、電車の中でスマホで読んでらっしゃいますか?(笑)
今日ふと気づいた瞬間に、少しだけ上を見上げてみてください。
何か自分をふんわり嬉しい気持ちにさせてくれるものを、意図的に探してみませんか。
どうぞよい一日を。
レニア